- JAPANESE
- ENGLISH
再生楽器の完成、そして津軽三味線・新時代へ
2011年、震災の年、夏頃から製作を始めた”再生楽器”たちが次々と完成しました。
これは宮城県出身の音楽仲間と共に行った「ゼロ・ワン・プロジェクト」と言い、震災によってできたガレキから楽器を作り、その音色と共に日本全国、世界各国の皆さんへ感謝を伝えていこうという活動です。
自治体から許可をいただき、膨大なガレキの中から楽器として使用出来そうな木材を探し、職人に選定してもらいこれまでに和楽器、洋楽器を問わず様々な楽器が誕生しました。
ゼロ・ワンプロジェクトによって生まれた最初の楽器は津軽三味線でした。
その三味線に使われた木材は、カウンターテーブルに使用される様な大きな一枚の厚い木だったそうです。
それを浅野が預かり大切に演奏しています。
本来、津軽三味線には数十年に渡り乾燥した硬い枯れ木を使用します。
びっしりと目が詰まっていて見た目よりも重いのが特徴です。
しかし、ガレキから作った三味線は、海水に浸かった経緯もあるためか、非常に柔らかく本来の重量の半分程度でした。
しかし、誰かの生活が染みこんだものから生まれた楽器だと思うと、その重みは計り知れないものであり、演奏していて心が研ぎ澄まされていくのを感じました。
楽器に生まれ変わったことで、浅野のような若い世代の人間が東日本大震災での経験や教訓を後世へ語り継いでいく為のひとつの象徴として、大きな存在となりました。
2011年、震災の年、夏頃から製作を始めた “再生楽器” たちが次々に完成しました。
浅野祥の実家は全壊扱いとなり取り壊しました
浅野が初めて師事したのは大工であった祖父でした。浅野が育った家は祖父が自ら建てた家。その家で祖父は趣味の民謡と三味線を毎日鳴り響かせていたのです。
その音を聴いて育った孫の祥がひとたび三味線に興味を示すと、祖父は嬉しくて嬉しくて祥に三味線の手ほどきを始めたのです。
7歳で津軽三味線全国大会に出場した浅野は、全国レベルの演奏を目の当たりにし、ますます津軽三味線の魅力にのめりこんでいったのでした。
彼と祖父の目標は、日本で最高峰のタイトルであるA級部門の優勝、そして3連覇(殿堂入り)でした。
「どんなに時間がかかってもいいから絶対に優勝しよう。そして必ず3連覇しよう!」
そう約束していたのです。
しかし祖父は祥のA級優勝を見届けることなく、浅野が12歳の時にこの世を去ったのでした。
浅野は14歳でA級最年少優勝を果たし、そのまま3連覇という前人未到の記録を打ちたて、16歳で殿堂入りを果たしました。
東日本大震災によって全壊扱いとなった浅野の実家の床柱は、津軽三味線でも使えそうな木材だった為、浅野の父の提案から三味線を作ることになり、床柱から二挺の三味線が出来上がりました。
柱には思ったより損傷もなく、三味線の全てのパーツを作ることができました。
自身の4枚目のアルバム「Parade」では、この床柱の三味線を使用しています。
これらの三味線をもって、日本各地、世界各地へ演奏にでかける、浅野はいま、そんな夢を抱いています。
たくさんの想いが詰まった木より生まれた三味線、そして自分の目で見て、感じた心。これらを手に数少ないプロの津軽三味線奏者の道を、表現者として一歩一歩ですが、確実に歩んでいます。
津軽三味線はもともと大道芸の様な存在でありながら、高橋竹山によってその存在を世界に広く知られることになりました。
しかし、歴史は浅く、まだ150年程度の楽器です。これからますます進化するこの楽器は、奏者の表現、表現意欲によって、無限に可能性が広がることでしょう。